日記(下巻だけ買った本)

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今日見た夢は思い出せず。見ていたのは間違いないけれど、話しかけられて起きるとすっぽり記憶から抜け落ちてしまう。


最近買った本に、小川哲『言語化するための小説思考』がある。

この本が気になったのは、「『ゲームの王国』という作品の著者自身のあとがきに、「自分の救済になると思ったから書いた」と書かれている」という記事を読んで著者のことを知ったからだった。

ふだん小説はほとんど読まないし、タイトルの「言語化」や「小説思考」について惹かれたわけでなく、ただそういった「あとがき」を書く著者が、小説というものをどう考えているのかと気になっていた。

ひと通り読んでみて、著者が「エンタメ小説であれば」という感じの前置きをかなり多用していたのが印象に残っている。確かに人に届くようにというのはエンタメならばほぼ必須の条件なんだけど、そうである必然性はないし、むしろ届くようにしたことで失われるものってけっこうあったりするんじゃないか、と考えたりもした(著者もそういうことを暗に示しているように思う)。高橋源一郎が絶賛していた『うわさのベーコン』の話を思い出したりした。

時系列で考えれば当然のことなんだけど、これは「あとがき」の後の話なんだよね。自分が本当に読みたかったのは、「あとがき」なんだ。


『ゲームの王国』は電子書籍でも上下巻に分かれている(電子書籍なのに上下に分ける必要があるのか、と思わなくもない)。

通常あとがきは下巻のほうにあるはずだけど、サンプルをダウンロードしてみても目次が表示されなかった。もしかしたら電子書籍にはあとがきがないのかもしれないとも思った。

他の本で——具体的には綾辻行人『どんどん橋、落ちた』の——紙の文庫本にあった「解説」が、電子書籍でなくなっているという経験したことがあった(とはいえ、電子書籍が新装改訂版だったからなのかもしれない、と今は思う)。

本人による「あとがき」ならば、本人の気分で掲載をしないのも充分あり得る。それと、あとがきのためだけに下巻だけ購入するというのもいかがなものか、ということもある。

そんなところで手が止まったまま現在に至っていたけれど、ちょうどよい機会なので、思い切って『ゲームの王国』 の下巻を買った。


あとがきはあった(解説もあった)。ちなみに購入したのはAppleのブック.appで読める電子書籍なので、他の媒体でも同じかどうかはわからない。まだ上巻を買っていないし、下巻の内容もまだ読んでいないから、作品のあとがきとして相応|《ふさわ》しいかどうかは断定できないけれど、買ってよかったと思う。


文末に「と思う」は書く必要がない、と高校の国語の時間に教師が言っていたことを思い出す。「文章自体が自分が思っていることなんだから」みたいなことを教師は言っていた気がする。そのときは「それもそうだな」と納得していた気もするんだけど、改めて考えてみるとそうでもないだろう、と思う。

「思っていることを書く」という前提があるなら、教師の言っていたことも妥当性はあるけれど、思っていないことも書けるんだから「と思う」ことに意味はある、と思う。確かに冗長に感じるときもあるし、主張としても弱くなる印象があるから、「よそ行きの強度」はなくなってしまうけれど、そういう強度がいつでも必要になるわけじゃない。


今まで自分が読んできたのはノンフィクション的なもの(日記的なものを含む)、専門書、学術論文が多い。読んでいる総量でいえば論文が一番多いかもしれない。基本的には事実を記録したようなものを好んでいるような所感があって、定期的に読んでいる知人や他人の日記(ブログ等)もそれでなんとなく説明がついてしまう感じもある。

単なる記録を綴った文章は小説にはなりえない、と主張する文章を読んだことがある。確かにわかる気もするけれど、そこでいう「小説」の射程はどこまでなんだろう。記録を綴った文にしかないような「何か」もあるんじゃないか、とも思う。


食わず嫌いなところがあるので、そもそも例えとして適切じゃない可能性が濃厚だけど、「素人モノ」を一定数の人が好むのに通じる現象があるのかもしれない。